・ポレノウ村再訪 ・マルヴダシト地方の村の変遷 ・マルヴダシト地方のオアシス
・遊牧民 ・マルヴダシト地方のオアシス農業社会
・イランの伝統農具と生活用具
・イランの村のガルエの生活 ―大野盛雄氏の1964年の写真から―
マルヴダシト地方のオアシス
マルヴダシト地方の谷平野を望む
ペルセポリスからオアシス農業地帯を望む(2000年)
ペルセポリス
ペルセポリスの遺跡にあるレリーフ
「オアシス」という言葉のもつ一般的なイメージは、砂漠の中で水が湧きヤシの木などが生えている沃地、というものであろう。「都会のオアシス」という言い方もこのイメージから来ている。だが学問的な用語としてのオアシスには、乾燥地における灌漑農業地帯も含まれる。というよりこの意味で使われる方が多い。ナイル川流域は最大のオアシスであり、農業地帯が広がるマルヴダシト地方も紛れもなくオアシスである。
この地方は、年間降水量が300ミリ、東京の7分の1足らずである。夏は雲一つない晴天が続き、気温も連日40度まで上がる。この気候では、大地は乾燥に強い草がまばらに生えるだけで、作物の栽培は不可能である。秋撒きの小麦が雨季のわずかな雨によって実を結ぶこともあるが干ばつの年には枯れ、農業としては成り立たない。
ただ、この乾いた大地も水さえ確保し利用できればオアシスに変えることができる。オアシスは人の絶え間ない営為によるものであり、マルヴダシト地方には半砂漠の大地がオアシスに変えられてきた長い歴史があった。
マルヴダシト地方の非農業地帯の景観
1 コル川の水利
谷平野には中央をコル川が流れている。この川は、季節によって流量の変化が大きく、雪解けの春には時として氾濫することもある。しかし農業に水が必要となる乾季には流量は減り、川の水位は地表よりも10m前後低くなる。このため、川の水を利用するにはダム(堰)でせき止め水位を上げる必要があり、ダムから分水路を枝状に走らせて遠くまで水を運んで農業に利用する。
ダム(堰)は古代から建設されてきた。コル川が谷平野に入る辺りにあるラームジェルド堰はその歴史が古く、アケメネス朝の時代(BC550~BC330)にはすでに存在していたことが知られている。ペルセポリスを建設する土木技術をもってすれば、ダムを作って川の流れをコントロールすることは難しいことではなかったであろう。広大な谷平野の開発には複数のダムが必要とされ、建設の技術と多くの人を動員できる統治者によって事業がおこなわれてきた。
コル川 (1972年8月、ポレノウ村付近)
マルヴダシト地方の谷平野
中央をコル川が流れるオアシス農業地帯
谷平野を縦貫するコル川の中流域にバンダーミール堰がある。このダム(堰)は形が美しく、交通の要衝にあってマルヴダシト地方の経済的な中心の一つともなっていた。水位の落差が大きく、ここから引かれた複数の水路から多くの村に農業用水を供給されてきた。ダムにはイランを縦断する幹線道路の橋がかかり、また落差を利用した製粉所に20余りの大きな石臼が作動していた。1960年代まで、このバンダーミール堰へは、遠く20キロ以上離れた村から人々が集まり、運んできた小麦を製粉し、隣接した市場で日用品などの買い物をしていた。
バンダーミール堰(1974年)
ダムの水力を利用した製粉(1974年)
バンダーミール堰の橋(2000年)
かつては幹線道路であり、遊牧民もこの堰で川を渡って移動した。
1974年、農村調査で約5ヶ月間ヘイラーバード村に滞在していた。まだ気力も体力もあった私は、中古の自転車を手に入れ、乾いて厚く土ぼこりが積もった道をコル川の下流域に向かった。途中、いくつかの村を訪れ宿泊もさせてもらった。出発して3日目、コル川に古いダム(堰)の遺跡をみつけた。地元では知られた遺跡であったが私にとっては発見であり、秘境の遺跡に出合ったような感動を覚えた。ダムは半ば崩れていたが、川の両側に複数の水路が分岐し水を湛えて村の方に流れていた。現役で活躍し、単なる遺跡ではなかったのである。
自転車をさらに下流域に向かって走らせると十数キロ間隔でいくつものダムに出合った。壊れているようにみえてもすべてが現役であった。後に、『水と灌漑技術』という古書を見つけて調べると、私が「発見」したすべてのダムの履歴が記されており、ほとんどが日本では平安時代中ごろのAD900年代に作られたダムであることがわかった。洪水でしばしば壊され修築が繰り返されながら1000年以上も活躍していたのである。
フィーズアーバード堰
2006年に再訪したときにはきれいに修築されていた。
ティラクーン堰
近くの村の古老によると、この堰も橋の
機能をもっていたが、1940年代、軍との戦闘で追われた
遊牧民部族が破壊し、その後は渡ることができなくなった。
ティラクーン堰(1974年)
堰から沢山の水路が分岐している。
ハサナバード堰(1974年)
かなり壊れているが堰として機能していた。
ダムで分水された水路は、さらにいくつもの水路に分岐して村々にたどり着く。供給される水量は村ごとに持分が決まっていた。たとえば、ラームジェルド堰で分水される水を利用するポレノウ村の持分は総持分数840のうちの22であった。水利のシステムをより仔細に知るため、手元にあった1957年の航空写真で確認することにした。目を凝らしてダムから分かれている水路を一つ一つ辿った。また航空写真を頼りに目標を決めて現場に赴くこともあった。
あるダムから引かれた水路の一つの分水堰にたどり着いたとき、そこに深く刻まれた歴史の蓄積に感嘆させられた。堰からは5つの水路が分岐していた。どっしりと置かれた長い方形の石には5つの溝が刻まれ、この溝から水がそれぞれの水路に流れ落ちていた。溝の幅は20ないし60センチ程度で水量も多くはない。それなのに各水路の両側には水路掃除の際に除かれた土砂がところによっては5mを超える高さに積み上げられており、水路に沿って延々と続いていた。山は数十年数百年の間に水路の両側に築かれたのである。
このようにコル川のダムや水路に刻まれた労働の痕跡から、マルヴダシト地方のオアシスの歴史をしっかりと辿ることができた。
5つの水路に分かれている分水堰(1957年の航空写真)
写真左に上から下に蛇行しているのがコル川に合流する川、
確認できる
分水堰と水路
水路は持分をもつ村に続いている。
分水堰(1974年)
5つの水路に分かれて村々に向かう。水路は毎年
土砂が取り除かれ、水路の両側に積まれた。
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2 地下水の利用
カナート
航空写真を仔細に観察すると山裾に沢山の穴の連なりが見えてくる。この穴は山麓から谷平野の方向に続き、数キロで消える。この穴の連なりと穴の下に延びる地下水路がカナートであり、山際に無数に掘られていた。かつてイランではカナートが灌漑農地の約4割をカバーし、それだけ重要な灌漑施設であった。ヘイラーバード村も1950年代までカナートを主な灌漑手段としていた村である。馬によって地下水をくみ上げる井戸もあったが、水量的にはカナートが圧倒していた。しかし1970年代初めまでにカナートのほとんどが枯れてしまった。原因は、動力で地下水をくみ上げるポンプ揚水井戸が普及し過剰な汲み上げで地下水位が下がったことにある。
山麓に伸びるカナート(1957年の航空写真)
穴の連なりが多数観察できる。
山裾に伸びるカナート(1974年)
では、カナートとはどんな水利施設なのか。建設のプロセスをたどることにする。
まず山裾を探査し、地下水のありそうなところに井戸を掘る。帯水層に十分な地下水が確認されたらこの帯水層の水を地表に導くための地下水路をほぼ水平に掘っていく。水流が速いと壊れやすいので地下水路は千分の1ないし二千分の1の緩い傾斜で、重力に逆らうことなく地下水を地表へと導く構造になっている。測量や掘削には高い技術が必要であり、モカンニーと呼ばれる専門の技術者が当った。
掘った土砂を地表に運ぶため数10メートルごとに竪坑が掘られた。土砂は革袋に詰められて踏み車で竪坑から地表に巻き上げられ、竪坑の穴の周りにドーナツ状に積み上げられる。竪坑はまた地下で作業する人のための換気口でもあり、地下水路の掃除や修理にも使われた。航空写真で観察された穴の連なりはこのドーナツであった。
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カナートの構造
カナート掘削の様子
カナートの竪坑
カナートの掘削や修理のとき、土砂はふみ車で引き上げられ竪坑の周りに積まれる。
カナートの出口
地下水路が地表に出て、しばらく地表を流れ、
水位が耕地のレベルに達するところから農地の灌漑がはじまる。
次に、主にカナート灌漑によるオアシス農業地帯を紹介する。
下の地図は、20世紀半ばのイラン北東部に位置するマシハッド地方のオアシスを示している。三方が山で囲まれた谷平野で、マルヴダシト地方のオアシスと規模も地形もよく似ている。川と地下水が水源となっている点も同じである。航空写真をトレースして作られたこの地図ではとくにカナートが強調されている。ここで糸のように線で示されているのがカナートで、小さな黒丸は村である。谷平野は山際から中央部に向かって緩やかな傾斜をなし最低部に川が流れている。
ここからわかるのは、山麓から中央の低地に向かって数キロから十数キロの長さのカナートが無数に伸び、カナートの線が切れる辺りに村があることである。カナートの地下水路が地表に現われたところから灌漑農地が開け、オアシス農業地帯が広がっている。
マシハッド地方のオアシス
カナートと河川を水源とするオアシスの事例
地下水路の長さは10kmほどのものが多く、概して長い。ヤズド地方には30kmを超えるものも少なくない。人が歩いて8時間もかかる長さである。この水利施設を作ったのはどのような人たちだったのだろうか。岡崎正孝氏の試算によると、1km掘るのに農民20人ないし50人の年収分の費用を要する(『カナート イランの地下水路』117ページ)。仮に10kmのカナートだと200人ないし500人分が必要になる。これは農民の能力をはるかに超えており、建設を担ったのは費用を負担できる大地主や都市の商人、役人などの資産家であった。乾燥地では水がないと土地はほとんど無価値である。カナート建設は農業用水の獲得によって無価値の土地から多大の価値を生み出し、彼らはオアシスの開発者として大きな利益を手にしたのである。
畜力井戸
地下水を農業に利用するためのもう一つの水利施設として畜力井戸がある。カナートと比べると水量は少ないが、カナートでは灌漑できない山裾の耕地を灌漑することができる。
1つの井戸は、複数の農民、馬、1つの革袋がセットになっていた。60リットルほどの水が入る革袋をロープで結び井戸に落とす。ロープは井戸に設置された滑車を通して馬につながれ、馬の力で汲み上げて水路に流す。
畜力井戸の村では、井戸の利用を通して農民が組織されていた。ある村の事例でみると、1つの井戸は6人の農民が共同で利用した。6人は2グループに分かれ、1日の揚水時間を2分し3人で作業を行った。この3人のうち1人は馬をけん引して革袋を引き上げ、別の1人が汲み上げられた革袋の水を水路に流す、そして最後の1人が畑でかんがいの作業にあたった。
ヘイラーバード村の畜力井戸(1960年頃)
井戸からの揚水作業
馬がロープを引き水の入った革袋を引き上げる
牽引力を高めるため道は傾斜がつけられている
ロト状の口をもつ革袋
革袋はロト状の口をもち、汲み上げた水はこの口から水路に吐き出される
3 オアシスについて
はじめに述べたようにオアシスは人によって作られたものである。マルヴダシト地方のオアシスもダム(堰)やカナートなどの水利施設の建設によって生まれ、数千年の歴史がある。しかし、オアシスが繁栄を続けるには水利施設が持続的に維持されなければならない。国が繁栄し社会が安定しているときにオアシスは拡大したが、戦争や王朝の交代で不安定化すると水利施設の維持は難しくなってオアシスは縮小する。半砂漠に戻ってしまうことさえある。オアシスは風船のように膨らみも縮みもした。
マルヴダシト地方のオアシスも膨張と縮小を繰り返してきた。この200年の歴史でみると、19世紀には遊牧民部族の勢力が強く、放牧地の拡大が農地を圧迫してオアシスは縮小した。20世紀に入り中央集権化を目指した政府は遊牧民部族に対して圧力を強め、遊牧民の定住化を進めた。その一方で、新たな地主層が水利に投資し定住遊牧民を労働力として使って農業経営を拡大した。この結果、オアシスは大きく膨らんだ。
そして現代、コル川の上流に作られた近代的な大ダムによって水がコントロールされ、新たな水路網で農地は拡大した。また、動力で汲みあげるポンプ井戸が普及し、このお陰で豊かになった農民はさらに多くのポンプ井戸を設置して水を汲み上げた。オアシスはさらに大きく膨らんだ。
しかし、水の汲み上げは地下水の水位を大きく低下させた。農地の拡大は安定して供給できる水量を超える水需要を生み、水のバランスは次第に崩れはじめた。頻繁に起こる干ばつにもバランスの崩れが少なからず影響したと考えられる。オアシスは人の営為によって作られたものとはいえ、風船のように膨らみすぎるとパンクする危険もはらんでいるといってよいだろう。
農民が設置したポンプ揚水井戸
近代的な大ダムから谷平野に伸びる幹線水路