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・ポレノウ村再訪  ・マルヴダシト地方の村の変遷  ・マルヴダシト地方のオアシス
・遊牧民  ・マルヴダシト地方のオアシス農業社会   ・イランの伝統農具と生活用具
・イランの村のガルエの生活 ―大野盛雄氏の1964年の写真から―

イランの村のガルエの生活 ―大野盛雄氏の1964年の写真から―

   ここで紹介するのは大野盛雄氏(1924-2004)の写真記録である。大野は東京大学東洋文化研究所の汎アジア人文地理部門の教授としてイランの農村研究に従事し、1964年にはイラン各地の5つの村を選んで調査を行い、研究成果は1971年に『ペルシアの農村』(東京大学出版局)として刊行されている。
彼の研究スタイルは地理学、経済学、文化人類学の学際的な視点から村を総合的に理解するというもので、住み込み調査を行いヒヤリングによる情報に重きを置き、写真もまたリアルな情報として大事にした。1970年以降には、地理学、言語学、畜産学、文化人類学、農業経済の研究者を組織しアフガニスタンとイランにおいて5か年に渡る共同調査を実施し成果をあげた。後藤も72年と74年に共同調査に参加の機会を得ている。ここに載せた写真は、1964年に大野がはじめて調査を行った5つの村の一つ、K村の記録である。この村はテヘランの南1000kmにあるマルヴダシュト地方の大オアシス地帯にあり、ここで3か月調査を行っている。
   マルヴダシュト地方は、幅が平均で20km、長さが100kmに及ぶ広大な谷平野にあり、古くから河川と山際に掘られたカナートを灌漑手段としてきた農業地帯である。1960年代はじめまで200ほどある村の多くは領主のような強い権限をもつ大地主によって支配されていたが、大野が訪れた2年前の1962年に農地改革が実施され、農民は地主から解放され自ら土地の所有者になっていた。しかし集落はまだ地主制時代の姿を残し、彼が写した写真は当時の村の様子がわかる貴重な記録となっている。 残された写真はカラーとモノクロがある。
   ここで紹介する写真のうちモノクロは最新の技術を駆使してカラー化してある。しかしあくまでイメージであり、カラー写真と区別できるようにCIと記してある。なお編集と解説は後藤が行っている。

1 ガルエの建設

   K村の住民は数代前まで放牧を行っていた遊牧民の子孫であった。19世紀末の時点ですでに定住し大地主が所有する土地で働く農民になっており、集落は氏族ごとに分かれ半農半牧の生活をしていた。この集落は山麓の扇状地に点在し、住居址が1970年代半ばの時点でまだ残されていた。20世紀に入ると、地主は耕地の真ん中に「ガルエ」と呼ぶ城砦のような施設を作り、山麓に住む農民を半ば強制的に移住させガルエの中に集落を移した。
   K村には2つのガルエがあり、この内の大きなガルエは一辺が100mほどのほぼ正方形、高さが5m以上の壁で囲まれていた。その四隅には円筒形をした見張り台のようなものがあり堅牢な出入り口が一カ所あった。マルヴダシュト地方では大地主が所有する村でガルエが作られたが、こうしたガルエの構造は、領主のような強い権限をもつ大地主にとって農民を支配・管理する上で、またまだ勢いがあった遊牧民の略奪から集落を防衛する上で有効であった。ガルエは地主の所有物でありここに住む農民の権利はきわめて弱かったから、大野はガルエを「飯場」のようなところと言っている。

2 ガルエ内部の構造

 

   集落の施設と機能はガルエの中に詰め込まれている。ガルエの壁の内側には農民の住宅が長屋のように並び、ガルエの壁が住居の壁の一部になっている。家は1家族当たり長方形の部屋が2つほど並んだ単純な間取りで、部屋に一つの出入り口がある。しかし明かりを取るための窓はない。建物や壁が切りワラを土に混ぜて煉った日干レンガで作られているため、ガルエは灰色に近いカーキ色のまさに「泥色の村」であった。
   家族また親族を単位に前庭があり、家畜小屋と土塀によって囲われている。比較的広くとられた前庭はさまざまに利用された。まず家畜の餌場があり、放牧のための羊やヤギがここに集められて放牧地に向かい、夕方ここに戻ってくる。出入り口の扉を開けると光が入るが室内は暗く、集落の人々は昼間家の外で過ごすことが多かった。絨毯を織るのも主食のパンを焼くのも家の外で、前庭は女性の仕事場であった。赤子は日陰で揺りかごに乗せられ、老人は日向ぼっこをした。
   またガルエの中央には共同の広場があり、農民はここに集まって農作業の手順を相談し、また仕事の合間に緩やかな時間を過ごした。子供たちはここを遊び場に、村の外からは商人がやってきて果物や衣類などを商った。

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3 村の女性と絨毯

   絨毯は伝統的に遊牧民によって織られてきたが、遊牧民の系譜をもつK村の女性もほとんどが絨毯を織った。羊の毛を刈り、染める糸の油脂や汚れを取り除くために洗い、これを紡いで糸にして染色する。染色は専門店に依頼するが、これを除くすべての工程が村の女性の手で行われた。
   羊毛は鉄製の手持ち紡錘車で紡がれた。地方によっては糸車を使うが、遊牧民や遊牧民系譜の村では紡錘車が一般的で、これを回転させながら少しずつ巻き取る。経糸用の糸は糸巻に巻き直して糸を長く張りさらに撚りを加えていく。
   K村における絨毯の技術は遊牧民時代と変わらない。織機の形、使用する糸、文様のいずれもが遊牧民のものと同じである。織機は伝統的な農村では屋内で使う垂直織機が多いが、K村では組み立てが容易で移動生活に適した簡便な水平織機が使われた。使用する糸にも違いがある。経糸に木綿を使うところが多いが、この村では遊牧民と同様に経糸もパイル糸も羊毛を使った。文様もこの地方の遊牧民のものと同じ幾何学的なデザインであり、オリジナルのモチーフは使わず、記憶をたどって模様を描いていく。デザインと色彩は母系で受け継がれた。

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4 食生活とパン作り

   日々の食事はパンとヨーグルトとわずかの野菜で、米や肉は結婚式などのハレの日以外はほとんど食べなかった。唯一の嗜好品はお茶で、タバコをスパスパ吸えるほどの余裕はなかった。
   主食のパンは各家で毎日焼かれた。小麦粉を練って団子状にし、石や木の台の上で直径40cm、厚さ2、3mmほどに伸ばす。これを直径60cmほどの湾曲した鉄板に乗せ、焼けたら裏返してこの上に新たにパン生地を載せ裏返していく。燃料は主に羊やヤギのフンを使う。発酵菌を使わないため薄い紙のようなパンである。このパン焼きのスタイルは器具の持ち運びに便利なため遊牧民に一般的であった。

5 農民の暮らし向きと社会層

   村を訪れたのが農地改革のわずか2年後だったこともあり、ほとんどの農民は貧しく生活にまだ余裕がなかった。日干しレンガの長方形をした家の中にみられる調度品は、寝具と衣類、それに食事の道具など日常生活に最低限必要なものだけであった。土間の一部に敷かれたフエルト製や厚手の平織の敷物の上が住民のくつろぐ場であり、そこで食事しお茶を飲んだ。また明かりとして小型のハリケーンランプが常備されていた。ガルエには小さな店が一つあったが、住民の小さな消費力を反映して狭い間口にタバコ、塩、灯油など日常必要とされるわずかな消耗品が売られていた。
   村に住む54家族のうち耕作権をもつ農民が46家族、耕作権をもたない非農民が8家族であった。彼らは村の動力ポンプの番人や牧夫として旧地主に臨時に雇われ生計を立て、村の中では下層に属した。しかし耕作権のない土地なし層のなかにも時代の変化をたくみに捉えてのし上がっていく者もいた。村長と共同で中古の車を買い町と村々をつなぐ定期便を開始した若者は、自ら運転手として金を貯め、10年ほどでかなりの財をなした。
   村の中で階層的に別格だったのは村長だ。村の代表として強い権限をもち農業経営を仕切っていた。また一方で村の外に当時60ヘクタールの土地をもつ農場経営者でもあった。

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6 ガルエの外

   ガルエから出ると農地が広がる。小麦、サトウダイコンが地主制の時代からの主な作物で、隔年で耕地を利用していたことで550haある耕地の半分近くが休耕地になっていた。農民はガルエの門の近くにたむろし、農作業の必要な時に農地に出向いた。女性にとっても門の付近は社交の場になっていた。ガルエの外の農業用水路が鍋や食器の洗い場になっていて鍋などを頭にのせた人たちが入口付近で行きかい話の花を咲かせた。
   家畜(羊・ヤギと牛・ロバ)は毎朝各農家の畜舎からガルエの中央の広場に集合し、共同で放牧地に向かう。その日の当番になった家の人が牧童となりまとめてガルエの外の放牧地に連れて行き、夕暮れにガルエに戻る。牛や羊は広場につくとそれぞれ自分で飼い主の家に戻っていった。
   ガルエの出入り口は頑丈に作られており鉄の飾りのついた丈夫な木の扉がついている。昼間は開かれ自由に出入りをするが、夕方には閉じられ外部からの侵入を妨げた。

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7 外からの訪問者

 

   ガルエには行商人、サルマニー(理髪)、托鉢僧など色んな訪問者があった。床屋は村と契約を結び、時々やってきては住民の髪を切り髭を剃った。報酬は収穫時に小麦で支払われたが、村の結婚式では重要な役割を担い臨時収入を得ることができた。
   行商人は食料や日用品をロバに積んで売りに来る。当時の村では小麦も通貨に代替し、果物売りや野菜売りは両皿の天秤をもち小麦の重さで量って売った。農民から羊やヤギまた絨毯を買い付けにやってくる商人もいた。家畜商は町で家畜市が開かれる頃、とくに犠牲祭が近づく頃に村にやって来た。また絨毯商人は女性が織り上げた絨毯を求めて訪れ、前庭に敷かれた絨毯を品定めし、あらを探して買い叩いていく。

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8 結婚式

   村の人たちが皆で楽しむレクレーションは農閑期の一日を山の中腹にある泉を訪れて食事を楽しむくらいで多くはない。しかし村全体が湧き立つのは結婚式だ。町からやって来る芸人のグループがラッパと太鼓で賑わいを盛り上げ、村の女性は総出でリズムに合わせて踊り、芸人は広場で滑稽な芝居を演じる。賑わいは終日続き、この間に結婚の行事がとり行われていく。結婚式は村の一大メーンイベントであった。

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9 ガルエのその後

   これらの写真が撮られた1964年から10年後の1974年にK村で大野をリーダーとする共同調査が行われた。地主の土地全部が農民のものになったこの村では、農地改革前と比べて農業収入はほぼ3倍に増えかなり豊かになっていた。そして集落の様子も大きく変わり、ほとんどの人がガルエの外に移り住んだことでガルエは廃墟になっていた。住宅の建物と前庭、前庭の一角に畜舎、餌場を置く様式は基本的に変わっていなかったが、整然と区画された各農家の敷地はガルエの時代と比べてはるかに広くなっていた。しかしどの家も外から覗くことができない高い土塀で囲われ鉄の扉で閉ざされていた。あきらかに閉鎖性を増し共同体としての村のその後の変容を予測させるものであった。